遠藤周作の沈黙
こんにちは。
このブログをどなたが読んでくださっているのかわからないのでほとんど自己満足ですが、ブログというツールがあるだけで何か文章を書こうというモチベーションに繋がってる気がします。
今日は遠藤周作の『沈黙』についてです。
遠藤周作を少しかじったのは大学2年生の今くらいの時期だったかと思います。
有名どころしか読んでいないので偉そうなことは書けないのですが…
沈黙を読み終わった後のずどーんと心にきた大打撃が大きすぎて、あの感じは本当によく覚えています。
隠れキリシタンに救いを与えるために命からがら島に潜入した若い宣教師が、自分のせいで次々に殉教していく信徒たちを前にして信仰を棄てることを迫られます。
宣教師の葛藤と、遠藤周作の思想が色濃く出ているキリスト像がはっきりとした言葉で示されていて、彼の核となっている部分がよく伝わってきます。
たまに重い腰をあげて純文学を読んでみても、難しい言葉の羅列に???となってしまうことが多いのですが、遠藤周作の文章はそういう意味では読みやすく感じました。
ただ世界観が強烈です。
泥臭くてずたずたで、どんよりじめじめ、真っ暗で寒くて、とあの世界観を表現しようとしても訥々としか言葉がでません。
ロールシャッハでいえば、無彩色反応とビスタで、特殊スコアでMORがついちゃうみたいな感じでしょうか。
読んでいてほっと息を抜ける場面が無く、ずっと息継ぎを我慢しているような、緊張感と息苦しさの状態が最初から最後まで続きます。
読んだことのある方には言いたいことが伝われば嬉しいです。
沈黙のテーマとしては
・神は沈黙しているのか?
・棄教は許されるのか?
ということが挙げられることが多いようです。
私自身は今の時点で作品の主題をどうこうを語れるほど深く読むことができていないのでここはさておきます。
自分が作品から一番強く受け取った印象は、これは遠藤周作の信仰の宣言文であるということです。
自分とイエスさまとの向き合い方を作品を通して伝えられているように感じました。
同時に「あなたはどう思いますか?考えてみてくださいね。」
というメッセージも込められているのかなと思ったり。
私は信仰しているものがあるわけではないので、神さまとの向き合い方と言われたら困ってしまいます。
ただ「神さま」という部分を今の自分の核となるようなものと置き換えてみて考えてみるのも、一つありだと思いました。
また、遠藤周作が日本の文化とキリスト教との間で悩んだように、自分にでもあてはまる2つのジレンマの中でどう折り合いをつけていくのかという議論をしていくことも、誰であっても人生のテーマになりうる意義あるものだと思いました。
数年前に沈黙の映画が公開された時、父と母に誘われて公開初日に観に行きました。
映像になると、またショッキングですね。
特にキチジローは見ていられませんでした。
映画のあとにお寿司を食べに行く予定だったのに、3人沈んだ気持ちでそんな気分にもなれず、そのまま家に帰った記憶があります。
映画だとまた作品の印象が少し変わりました。
監督が外国の方で、あくまで外国の視点から日本のキリスト教を描いているからでしょうか。